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おひさしブリーフ

おはこんばんちは

スウペリアアツロウです。



うちの奥さんの病気も治り、退院いたしましたので、
再開いたしたいと思います。






今回はフィギュアのネタが進行していませんので
私の好きな戦国大名をご紹介いたします



その方は前田利家さんです。
あまりにもビッグネームなので、ちょっと躊躇しましたが、
大好きな方なので、
がんばって書きたいと思います。

前田利家
加賀・能登・越中(石川県と富山県)120万石の大大名です。(利長の時代)
お城は金沢城ですが利家さんの時代には尾山城と言っていました。
(後に息子の利長時代に改修され金沢城に名前が戻りました。)
金沢城は国の重要文化財です。

前田利家さんは身長が高く(利家の着物から182cmくらいあったそうです)顔も男前だったそうです。
若い頃は槍の名手で「槍の又左」の異名を、もっています。

利家は尾張国(愛知県名古屋市)の生まれで、最初は小姓として織田信長に仕えます。
若い頃の利家は血の気が多く、色々トラブルがあったみたいで、
その事が原因で失敗して数年間、浪人暮らしをしていた事もあったそうです。

桶狭間の戦いでは、そのトラブルが原因で出仕停止になっていたのにもかかわらず
勝手に参戦して大活躍 
信長に戦功も認められ、帰参を許されたそうです。
その後、柴田勝家の与力となり活躍して能登23万石の大名になりましたが、
本能寺の変で信長が明智光秀により討たれ、事態は急変 
秀吉の光秀討伐から
清洲会議(信長の後継者争い)で羽柴秀吉と柴田勝家が対立、
利家は勝家につきますが
賤ヶ岳の戦い(羽柴秀吉vs柴田勝家)では、合戦中になぜか撤退、秀吉軍の勝利を決定づけました。
このときの利家の行動はよくわかりませんが、
秀吉とは昔から仲が良かった友達なので、
戦うのはいやだったんでしょうね。(ほかにも理由はあると思いますが)

その後、秀吉は国内を統一し天下人となります。(結構、あいだを飛ばしますが)

豊臣政権ではいわずと知れたナンバー2 百万石越えの大大名となり、秀吉を支えました。
(秀吉は利家に石高の加増をもっとしたかったみたいでしたが、側近の石田光成がゆるさなかったそうです。
そのことで前田家と光成は不仲になって、光成の身に後々ひびいてきます。)

みんなで豊臣政権を支えて戦のない平和な国をつづけようぜーと言うなか
一人、マゼなやつがいて、名を徳川家康といいます。

こいつがまあ、約束は守らんし、勝手なことはするで、調子に乗っているんですが、力があるので、
秀吉サイドも下手に手が出せません、
そこで秀吉亡き後の豊臣政権を合議制にして(秀頼がまだ小さいので)
家康を牽制しようぜっちゅうことで、豊臣政権五大老、五奉行を作ります。
その中の大老筆頭が利家さんでんがな(マゼも筆頭格)

五大老
○徳川家康
○前田利家
○上杉景勝(小早川家)
○毛利輝元
○宇喜多秀家

五奉行
○浅野長政
○石田三成
○増田長盛
○長束正家
○前田玄以

五大老、五奉行のこともあり、さすがの家康も秀吉と利家が生きている間は下手な事はしませんが、
かげでこそこそ(他家と婚姻をむすんだりして)いらんことをしています。
(秀吉と利家が死んだら、自分が天下を乗っ取ろうというのがバレバレですな)

その後、太閤殿下の死期が近くなると、家康はマゼ再開、
加藤清正、福島正則、初めとする武断派と石田光成、小西行長たちの文治派が争いをはじめ
都は戦々恐々としております。

そこで、権大納言前田利家さんの出番がきました
利家さんはさすがに大老の筆頭格 マゼを黙らせる力もあり、次世代の大名からも信頼が厚いと言う事で
一時的ではありますが、この場をまとめたそうです。(話が前後していたらすいません)
その後、利家さんは秀頼の後継人になり、豊臣政権もなんとか持ち直したのですが、
太閤殿下の死後、8ヶ月後にあっけなく亡くなりました。

とても残念でなりません。利家さんがあと10年頑張ってくれれば豊臣政権は秀頼公元服の後、安泰となり
日本の歴史はおもしろいことになっていたでしょうね。

歴史の面白いところは大きく流れが変わる時のキーマンを知るところにあると思います。

今回の話で言うと豊臣政権から徳川へ流れが変わっていくなかでの前田利家さんでした。

私は10年くらい前に石川県に旅行に行ったことがあるのですが、その時に知った、歌があるので紹介します。

「天下 葵よ 加賀様 梅よ 梅は葵の たかに咲く」

これは徳川家の家紋「三葉葵」と前田家の家紋「剣梅鉢」を葵と梅にたとえて、梅の花は葵より高い所に咲く
と言っとるわけです。
加賀の人々は利家さんの方がマゼより遥に上の人なのになんで、マゼの家来にならなアカンねんと言う
悔しさを歌ったと伝えられています
同感です。

利家さん関連の小説などでよく出てくる、とってもかっこいいい話をいくつか紹介します。

信長公の家臣時代のトラブルで浪人暮らしをしていたことを紹介しましたが、
その頃の事を晩年語るシーンあります。
利家さんはこう言っています
「今まで、親しくしていた人たちも落ちぶれてしまったら、声もかけてくれない。だからこそ
そんな時に声をかけてくれる者こそ真の友人だ」
いい話ですなぁぁ 
ちなみにこの時、親身になって声をかけてくれた人は森可成さんや柴田勝家さんです。

はい、ここで疑問、そこまで言っている柴田勝家さん(利家さんは勝家さんのことを親父様とよぶほど惚れ込んでいます)
を賤ヶ岳の戦いでは裏切っていますが、なぜっ?

理由は色々あるんだと思いますが、たぶんこういう事ではないでしょうか

利家は信長公の家臣であって柴田勝家の家臣ではないと言うこと
ほんでも、勝家さんにはいろいろ恩義があって柴田勢に
ついていたんでしょうが、流れが秀吉側に傾きかけた時
お家存続の為、しょうがなく戦線を離脱したんでしょう。

現代の考え方では理解が難しいですが。この時代の「家の存続」っちゅうのは一番大事なことで、勝家さんも「しゃあない」
と思っていたはずです。
賤ヶ岳敗戦後の勝家さんは利家の裏切りを責めもせず、人質に出していた利家の娘を返しています。
いやぁ柴田勝家っちゅう人はいさぎよくて立派な方ですな

あと、武勇に優れた利家さんは次世代の大名からものすごく尊敬されていて、なかでも加藤清正さんは
「あんなすごい父親がいるのに戦場での話を聞かないなんてもったいない」と息子の利長を羨ましがったそうです。

マンガなんかで有名な前田利益(慶次郎)さんは利家さんの義理の甥になりますが、気が合わなかったようで
利益さんは前田家から出奔しちゃいます。
昔、ジャンプで連載していた「花の慶次」では利益と利家は親子ぐらいの年齢差で表現されていますが
実際は二つか三つぐらいしか差はなかったみたいです。(ショックでしょ)

それでは利家さんのこの世の最後のかっこいい話で終わりたいと思います。

利家さんは死ぬ間際にお坊さんから念仏を唱えてあの世へ旅立つよういわれた時、言う事を聞かなかったそうです。
それで妻のお松は、泣きながら、こう言ったそうです。
「殿は、お若い頃から戦場で大勢の人をお殺しあそばしたゆえに、後生が心配で恐ろしゅうございます。」

それを聞いた利家さんは怒って
「俺は武士の家に生まれたがゆえに人を殺さねばならなかったが、一度も非道なことをしたことはない。
だから地獄に落ちることはないが、もし、地獄に落ちれば俺より先に行っている俺の家来どもを従え、
大いに地獄征伐をしてやろう、」こう言って念仏を唱えなかったそうです。

かっけぇ かっけぇ かぁーけぇぇぇ しびれるー

利家さんの死因は癌だったそうで、最後はあまりの痛さに刀で自ら胸を突いて死んだといわれます。



最後に一言

豊臣政権ばんざーい







それではブログ再開を祝して
歴女BASARA無双はーじまーるよー



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次回をお楽しみに

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